明日と来年
スーツ姿のアナウンサーが原稿を読み上げる。
数年前に起きた震災の追悼式典が、かつての被災地で行われた、と。
そのニュースを見て、鉄次は「あ」と声を上げた。
鉄次がそれを知ったのは、『事件』の後、引越しのための手続きを進めていた時だった。
「届出書と……。本人確認書類のコピー……って、免許証でいいですよね。鉄次さんの免許証貸してください」
「……てめえに預けんのスゲー嫌なんだがな……」
「手続き丸投げしといて何言ってるんですか。じゃ、コンビニ行ってきますね」
受け取った鉄次の免許証をひらりと振って、遥はマンションを出て行った。
ひとり残された鉄次は、手持無沙汰に煙草をくわえる。
愛用のオイルライターを取り出し、左の親指でフリント・ホイールを擦った。
「…………」
数度繰り返すが、火花が散るだけで一向に火が着かない。舌打ちしてライターをローテーブルに放り投げた。カン、と固い音が鳴る。天板に傷が付いたかもしれない。どうでもいい。
食事も、着替えも、その他の日常も、ある程度こなせるようになってきた。それでもこうして、些細な動作でつまずいてしまう。
……いや、初めからこなせるようになどなっていない。そう思い込んでいただけだ。そう思い込むほどに助けられていた。
――遥に。
退院してから――いや、入院中も、遥は付きっきりで鉄次の世話をしていた。鉄次が何の不便も感じないように。
いつの間に、あの男はこんなにも『当たり前』の存在になっていたのだろうか。
煙草をくわえたままため息を吐いて、鉄次は先ほど放り投げたばかりのライターに手を伸ばした。
ふと、ローテーブルの上に置きっぱなしの紙が目に留まる。
住居を移す際は、いくつかの書類を申請、あるいは提出しなければならない。ローテーブルに置かれた紙は、それを役所に請求するための届出書だ。鉄次のものと、それから。
「……」
一枚を手に取る。左上の枠内には、書き手の整った顔に似合わない乱雑な字で、「四宮遥」と記されていた。
氏名、年齢、性別、住所、生年月日。
鉄次にとっては「今更知ってどうすんだ」といった程度の情報だ。
無感動に書類を戻したところで、玄関から遥の声が聞こえてきた。
あれはもう数ヶ月も前のことで、それから一度も思い出すことはなかった。思い出す必要の無いことだった。
ただ、あの時思ったのだ。「ああ、同じ日なのか」と。
テレビには、式典に参列した者たちが神妙な顔で黙祷を捧げる様子が映し出されている。
やがて震災のニュースは終わり、うって変わって明るい口調になったアナウンサーが、野球選手の誰それがメジャーリーグで活躍中だと伝えてきた。
テレビから目を外し、鉄次は縁側へ――庭へと視線を移す。
洗濯物を取り込む遥の背中を、じっと見つめた。
*****
「何か、欲しいモンあるか」
唐突に切り出され、遥はぱちぱちと目を瞬かせた。
この人はいきなり何を言い出すのか。
質問の意図を探ろうとしてみるが、鉄次はいつも通りの顔で夕飯の照り焼きをつついている。照り焼きは味を濃い目に、紅ショウガをたっぷり添えて。それが鉄次の好みだ。
左手での箸使いも大分上手くなってきた。元々鉄次は器用な男だ。右手が使えない不便さなど、もうほとんど感じていないらしい。
「欲しい物って……どうしたんですか、急に」
遥の返答に、鉄次は箸を止めて眉間のしわを深くした。
「どうしたじゃねえよ。誕生日だろうが、お前」
「……ああ、そういえば今日でしたっけ」
鉄次に言われて、遥は他人事のようにそう返した。
3月11日。
確かに、今日は遥の生まれた日だ。
「もう夜だから明日になっちまうが……、何か買ってやっからよ」
「欲しい物かあ……。別に無いんですけど……」
「……祝い甲斐の無え野郎だな……」
祝おうという気があるのか、と、遥はまた目を瞬かせる。
鉄次のことは誰よりも理解しているつもりだが、こうして読めない行動を取られることも多い。新鮮さの薄れない人だ。
それにしても困ったものだと、遥は少し眉を下げた。
欲しい物。そんな物は無い。
遥の生活に不足は無く、遥の生活に不満も無い。
――鉄次が、ここにいるのだ。
鉄次がいるのに、欲しいものなんて、これ以上あるはずがない。
遥は満たされている。
このままでいい。これ以上は、もう、何も。
「……あ、」
そうだ。
欲しい物は無い。でも、願いなら、ある。
鉄次がいて、満たされていて、だから――。
――鉄次さんに、殺してほしい。
「……やっぱり、無いです。欲しい物」
「ったく……つまんねえ奴だな、てめえは」
不服そうな鉄次に肩をすくめて、遥は空になった食器を下げようと席を立った。
皿を洗って、風呂を沸かして。ああ、鉄次のシャンプーが切れそうだった。『欲しい物』にシャンプーと答えたら怒るだろうか。
食器を持ってキッチンへ向かう遥の背中に、
「来年はちゃんと考えとけよ」
鉄次の言葉が、ぶつかった。
「――――!」
取り落としそうになった食器が、遥の手の中でカチャンと音を立てる。
そっと振り返ると、鉄次は遥の焦りに気付いた様子もなく、テレビを観ながら食後の一服を楽しんでいた。
キッチンへ足を進める。流しに食器を置いて、細く息を吐いた。
『来年はちゃんと考えとけよ』
深く考えた言葉ではないだろう。ほんの何気ない一言だ。
「来年…………」
何気なく、当たり前のように、鉄次はそう口にした。
――来年も、遥と共にいるのだと。
「…………っ!」
遥の胸に、湧き上がる感情があった。
熱くて、苦しくて、優しくて。
泣きたくて、笑いたくて、叫びたくなる。
この感情は、何だろう。
「……鉄次さん……」
きっと明日、鉄次は出かけて行くだろう。そして、遥に一日遅れの誕生日プレゼントを買って帰る。
居間からは微かにテレビの音が聞こえてくる。明日の天気は、くもりのち晴れだ。