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臨終

 レースカーテン越しに差し込む光が、ベッドに横たわる人間を柔らかく照らす。白い髪が陽光に透け、絹糸のように輝いている。その前髪を人差し指でそっとはらう。横たわった遥がまぶたを開き、「どうしたんですか、鉄次さん」と問う。生命力の消えかけた、か細い声。

 ああ、こいつは今日死ぬのだな、と鉄次は思う。

臨終

 十数回目の春を迎えたある日、何気なく見下ろした遥の髪に、白いものが一本混じっていた。鉄次は「てめえもオッサンの仲間入りだな」とからかって、「鉄次さんはもうすぐお爺さんですね」とやり返された。鉄次の髪にも、白が混じっていた。
 目尻に、口元に、額に、少しずつ皺が増えていった。近くの物が見えにくくなった。関節が痛むようになった。髪が抜けた。耳が聞こえづらくなった。手足が細くなった。足が上がらなくなった。
 まず鉄次が。追って遥が。朝が来て、夜が来て、そのたびに一歩ずつ。――死へと、近付いていった。

 先に倒れたのは遥だった。
 買い物帰りに転んでしまい、骨を折った。そこから、みるみる弱っていった。一年が過ぎる頃には、外見年齢は鉄次と変わらないほどに老けこんでしまった。鉄次は「俺より若いくせに」と悪態をついたが、本当は安堵していた。
 遥は鉄次より先に死ぬ。鉄次は遥を置いて逝かなくて済む。遥を、独りにしなくて済む、と。

「鉄次さん」
 遥の声に、鉄次の意識ははっと引き戻される。横たわったままの遥が、顔だけをベッドサイドの椅子に座る鉄次の方へ向けていた。
「眠いんですか?」
「いや……」
 短く答えて、胸元に置かれた遥の手に自分の左手を重ねる。弾力の無い伸びきった皮膚に覆われた手は、冷たく固い。
 遥が大きく咳をした。乾いた咳が何度も続き、遥の上体が跳ねる。鉄次は枕元に置いてある吸い飲みを手に取ったが、飲み口を近付けても遥が首を振るので元の場所に置き直した。もう水を飲む元気も無いのだろうか。
 咳がおさまって呼吸を整えていた遥が、ふと鉄次の反対側――窓の方へ視線をやった。
「鉄次さん、ごめんなさい」
「あ?」
「お花見に行くって、約束したのに」
「ああ……」
 去年の今頃は、遥の調子の良い時に二人で散歩に出ることもあった。近くに空き家があり、元の家主が植えたのだろう、庭に桜の木が立っていた。いつ咲くか、まだつぼみだ、上の方が咲いている、ほらあそこも。そんなことを言い合いながら並んで歩いて。満開になったら花見をしようと言い出したのはどちらだっただろうか。
 三分咲きの頃に遥が入院してしまい、花見どころではなくなってしまった。退院はできたものの桜はすっかり緑の葉に変わってしまい、落ち込む遥に「花見は来年だ」とそう言った。
 めっきり物忘れが酷くなったくせに、あんな言葉を律義に覚えていたのか。いや、遥は鉄次のことだけは絶対に忘れない。昔から、それだけは変わらなかった。
 遥の手に、もう一度左手を重ねた。軽く握ると遥が目尻の皺を深くする。
「鉄次さん」
「おう」
 鉄次の返事には言葉を返さず、遥がゆっくりと目を細める。遥は、こうして用事も無いのに鉄次の名を呼ぶことが多い。名を呼ばれて鉄次が反応すると、へにゃりと締まりの無い顔で笑うのだ。鉄次は面倒な奴だと思いながらも、遥が楽しそうなので好きにさせていた。
「鉄次さん」
「おう」
「鉄次さん」
「おう」
「……鉄次さん」
「おう」
 遥が、ふうと息を吐いた。
 そろそろだ、と鉄次は思う。最期が、近い。
「鉄次さん、僕ね」
 小さく弱々しい声は、それでも遠くなった鉄次の耳にしっかりと届く。
「僕はずっと、幸せでした。鉄次さんがいて、鉄次さんといて、幸せじゃない瞬間なんて無かった」
「…………」
「ねえ鉄次さん。きっと、僕は、鉄次さんのことが――――」



*****



 ぱち、と目が覚めた。
 寝起きだというのに、鉄次の頭は明瞭に動いている。今日は四月三日。カーテンの隙間からは夜の空が覗いている。サイドテーブルの時計は、午前二時二十五分を指していた。
 昨日は鉄次の誕生日だった。それはいいのだが、何故だか遥がやけに落ち込んでいて。首をかしげていると「また鉄次さんの寿命が短くなった……」などと言い出したのだ。そのせいだろう、あんな奇妙な夢を見たのは。
 鉄次が起きた気配につられたのか、隣で眠っていた遥がもぞりと体を動かした。白髪の一本も無い艶やかな髪が、動きに合わせてぱらりと肌を滑る。その肌は陶磁器のようで、皺もシミも見当たらない。
「あー……おはようございます鉄次さん……」
「まだ夜だ、寝てろ」
「いや……鉄次さんが起きるなら起きます……」
 遥は枕に頭を預けたまま、鉄次へと顔を向ける。同じく横になったままの鉄次と視線がぶつかった。と、眠たげだった遥の目が軽く見開かれ、ぱちぱちと瞬いた。
「……何かありました?」
 遥の問いかけに、今度は鉄次が目を瞬かせた。が、すぐに答えへ辿りつく。
「……良い夢、見てな」
「へえ」
「てめえがくたばる夢だよ」
「えー、酷いなあ。で、僕はどうやって死んだんですか?」
 遥の声はどこか楽しげだ。自分が死ぬ夢を『良い夢』だなどと称されて機嫌を損ねないのは流石と言うべきか。どんな内容であれ、『鉄次の夢に遥が出てきた』という事実だけで充分なのだ、この男は。
「どうだったかな……」
 目覚めた瞬間から夢の詳細は鉄次の脳内からぽろぽろと剥がれ落ち、今はおぼろげな輪郭が残るだけだ。遥が死ぬ夢。なのに穏やかで暖かくて、優しい夢だった。記憶を探っている間にも、夢の欠片は剥がれていく。
 遥は最期に何か言っていた。何だったかはもう思い出せない。ただ、鉄次は。

 ――――俺もだ。

 そうだ、確かにそう思ったのだ。
 カーテンの隙間から差し込む月の光が、ベッドに横たわる遥を柔らかく照らす。艶やかな髪が月光に透け、絹糸のように輝いている。
  ああ、うつくしいな、と鉄次は思う。